<菅原道真>

藤原氏、源氏といった当時の有力な氏族の生まれではなかった菅原道真であるが、学問、詩文、書道等に才能を表し、時の宇多天皇に重用され、877年式部少輔(しきぶのしょうすけ)兼文章博士(もんじょうはかせ)、886年讃岐守になっている。

その宇多天皇はもともと藤原(北家)基経(もとつね)の力によって887年に即位したのだが、自らの力による政治を目指したことから基経と衝突し、同年閏11月の詔にあった「阿衡の任を以って」が元となり「阿衡の紛議」が起きる。基経は役職任命の詔の中で使われた「阿衡」の用語について、古典を引き合いに実体のない閑職と決めつけ、政務放棄といった嫌がらせにでたのである。この基経の揺さぶりのため、宇多天皇は親政への着手を妨げられた。これは天皇が藤原氏による摂関政治家らの脱却、親王政治を目指したために藤原氏と対立して起こったものだった。

この阿衡の儀において藤原基経が政務を放棄した際に、菅原道真は諌書を送り、基経の非を諌め、翻意させている。

その後基経は藤原氏に有利な人事を進めるわけでもなく、数年後891年に没する。これは氏族の繁栄より個人的な威信強化、藤原氏内の人材不足のためともいわれるが、真相は明らかではない。

さて、891年に宇多天皇は前讃岐守菅原道真を蔵人頭に抜擢し、親政に向け活動を再開する。893年には菅原道真も含む4人が参議に新任された。895年には中納言、896年には権大納言(また、天皇に先立って政務を吟味する内覧が基経を継いだ子の時平と二人のみ許される)899年には醍醐天皇のもと右大臣になる。

897年には宇多天皇が譲位するが、本人が政治に興味を失った、本人の意志薄弱、若き次期天皇を陰から支える、元からの出家願望等諸説がある。

上記の通り道真は宇多天皇に重用されたが、背景となる政治基盤、氏族もないうえ、継いだ醍醐天皇との関係は宇多上皇との関係ほどでもなく、藤原家を始めとする周囲の陰謀で901年1月25日、右大臣から太宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷されてしまい、903年にはその地で没することとなった。

しかし菅原道真を追放した関係者(藤原時平、藤原菅根、源光)が数年以内に次々他界し、醍醐天皇の親王が923年に病死、930年には落雷大火により大納言藤原清貫らが死傷、醍醐天皇も同年崩御した。

そのため、菅原道真の墓所が元となった太宰府天満宮、神託により霊をなぐさめるための京都北野天満宮、その他生誕地、居住地、流謫の道筋、父祖子孫のゆかりの地などにも天満宮ができることとなる。


(参考資料)